白石城の歴史・城主の変遷
江戸時代には伊達家の重臣・片倉氏が居城し、戊辰戦争時には新政府軍に対抗した奥羽越列藩同盟会議が行われ、公議府が設置され輪王寺宮が滞城されました。
明治初めの解体後、平成の世に木造で復元された天守閣は江戸時代の姿を今に伝えています。城内の展示パネルでは、1階で白石城や片倉家の歴史を、2階で白石城復元にまつわるストーリーを解説しています。3階では、市内の歴史にまつわるスポットなどを解説付きでご紹介しています。高欄から城下を見渡し、城主になった気分を味わってみましょう。
城主の変遷
白石城を含む刈田地方は戦国時代、伊達氏の支配下にあった。天正17年(1589)、伊達政宗は会津地方を治めていた蘆名氏との戦いに勝利し、会津を含む奥羽に150万石近くともいわれる大領国を有していた。
天正18年(1590)の小田原征伐に伊達政宗は遅れて参陣。結果、天下統一を進めた豊臣秀吉が奥州仕置き、再仕置きを行い伊達政宗を減封、会津及び白石城がある刈田郡を没収し家臣の蒲生氏郷に与えた。蒲生氏郷はもともと近江の出身で、その赴任した先々で多くの城と城下町を造った。代表的なものとしては松坂と松坂城、会津若松と会津若松城などがある。
蒲生氏郷は白石城を近世城へと改修。北側で伊達領と接しており、伊達政宗を抑えるという意味があった。白石城には蒲生氏郷の家臣・蒲生源左衛門郷成が入り城主となった。その後、蒲生領は上杉領となり、上杉景勝の家臣甘糟備後清長が居城した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い直前、伊達政宗は甘糟氏が居城していた白石城を攻撃した。政宗は城主が留守のすきを狙い、白石城北側の段丘上に陣場を築いた。片倉軍は西側から城を攻め、片倉重長が初陣を果たし、本丸への先登の功をあげるなど活躍した。
この戦いに勝利した伊達政宗は徳川家康から刈田郡・白石城を与えられており、まさに「東北の関ヶ原」ともいえる戦いであった。政宗の陣場跡は天守閣の3階からも望むことができる。
その後、伊達政宗の叔父・石川昭光に城が預けられたが、慶長7年(1602)に重臣・片倉小十郎景綱に白石城を与え、以後約260年間片倉氏が居城した。伊達領の南端にあるこの城は、政宗にとっては南側を守る重要な拠点だった。
白石城と奥羽越列藩同盟
白石城は日本の歴史の転換期に重要な役目を果たした城でもあった。徳川幕府が瓦解した後に、新政府軍と旧幕府軍の間で繰り広げられたのが戊辰戦争であった。京都守護職として薩長などの倒幕勢力を厳しく取り締まっていた会津藩は「朝敵」とされ、仙台藩や米沢藩などに会津藩を追討する命令が出された。
慶応4(1868)年、仙台と米沢の間にある白石城では奥羽14藩が集まって「白石会議」が行われた。その結果、会津藩の救済を求める嘆願書を新政府側の奥羽鎮撫総督に提出するが却下され、さらに仙台藩士らが福島にいた総督府下参謀の世良修蔵を暗殺する事件を起こし対立が明白になる。
その後奥羽越列藩同盟が結ばれ、白石城には公議府が設置され輪王寺宮が滞城された。しかし、奥羽諸藩は戊辰戦争に敗れ、白石は仙台藩から切り離され、南部藩を治めていた南部家が白石藩知事となった。明治2(1869)年、白石城は南部氏に引き渡されたが南部家は盛岡に復帰。片倉家臣団は北海道に移住した。明治7(1874)年に白石城は解体された。
参考文献
「白石城物語」(読売新聞東北総局)
「よみがえる白石城」
※このページは白石城内の展示パネルの英訳・繁体字訳の文章にWEBオリジナルのストーリーを加えて制作しています。