片倉家と真田幸村
大坂夏の陣
慶長20年(1615)、徳川幕府が豊臣家を滅ぼすこととなる戦い。前年の「大坂冬の陣」では徳川勢が優位に戦いを進め豊臣勢は弱体化した。しかし、豊臣勢の真田幸村(信繁)が「大坂冬の陣」で「真田丸」と呼ばれる砦を築いて徳川の攻撃を防いだ。「大坂夏の陣」の時は大坂城の堀は埋め立てられており、豊臣勢は大坂城の外で徳川勢を迎え撃たなければいけない状況だった。5月6日、大和路を西に向かって大坂城に進軍する徳川勢を豊臣勢が迎え撃つ「道明寺口の戦い」が起こった。
徳川側として参戦した片倉小十郎重長は伊達の先陣として出陣した。道明寺口において後藤又兵衛、薄田兼相らを破り、「鬼小十郎」の名を天下に知らしめた。後発隊だった真田幸村軍とも戦い、片倉の騎馬鉄砲隊の砲撃に対し真田軍も応戦した。真田幸村は翌5月7日の「天王寺の戦い」で徳川家康の本陣まで攻め込むが力尽きた。同日、大坂城は落城。豊臣家は滅び、時代は徳川の世となった。伊達家は「大坂夏の陣」の武功により徳川家から宇和郡(現在の愛媛県宇和島市周辺)を与えられた。宇和島城には伊達政宗の長子伊達秀宗が入城。子の宗利が城郭を大修理し、寛文11(1671)年に完成。貴重な現存12天守としてその姿を今に残している。
片倉隊が討ち取った武将
・後藤又兵衛
播磨国出身、黒田孝高(黒田官兵衛)、長政親子に仕え朝鮮出兵や関ヶ原の戦いでも活躍した。「大坂夏の陣」では豊臣秀頼に招かれて参陣した。槍の使い手であり、「黒田二十四騎」、「黒田八虎」、「大阪五人衆」の1人に数えられる。
・薄田兼相(隼人正)
小早川隆景の家臣薄田重左衛門の子。豊臣秀吉・秀頼に仕え、秀頼に招かれて大坂夏の陣に参陣した。
片倉と真田
「道明寺口の戦い」で片倉隊と一線を交えた真田幸村は、この日の夜、激戦を繰り広げた敵将・片倉小十郎重長を知勇兼備の将と見込み、娘・阿梅(おうめ)らを託した。阿梅は慶長9(1604)年生まれとされているので当時は10歳ほどの年齢だった。翌日、真田幸村は「天王寺の戦い」で最期を遂げ、大阪城は落城する。
阿梅や幸村の子阿菖蒲(おしょうぶ)は白石城の二の丸で、大八は領内で密かに養育されたという。その後阿梅は重長の後室となり、阿菖蒲は片倉家に仕えた田村定廣の妻に、大八は片倉守信と名乗り、仙台藩士となり幸村の血脈を繋いだ。阿梅、大八の墓は市内の当信寺にある。阿梅は白石市郊外に「月心院」を建立。「刈田郡史」によると真田幸村の位牌がおかれていたと伝わるが、現在は廃寺になっている。
阿菖蒲が妻となった田村定廣は三春城主・田村清顕の孫。田村清顕の娘は伊達政宗の正室・愛姫である。定廣は白石市郊外の愛宕山に田村家の墓と真田幸村の墓を建立した。また、市内にある清林寺は真田家遺臣が開基した寺として知られ、真田の「六文銭」を寺紋としている。
真田幸村・阿菖蒲の墓
真田幸村・阿菖蒲の墓は、片倉家の御廟所がある愛宕山にある。片倉家の御廟所の下の駐車場から、現地の案内板に従ってまずは片倉小十郎の異母姉、喜多の墓を目指す。
喜多は片倉小十郎景綱の異父姉であり、伊達政宗の乳母でもあった。喜多は白地に黒鐘の馬印を考案。この旗は片倉家の軍旗として使われ、白石の市章のモデルになっている。
喜多の墓に向かって左手に石畳を進むと、田村家の墓に到着する。田村家の墓には阿菖蒲の墓と真田幸村の墓がある。
喜多の墓
阿菖蒲の墓(奥)と真田幸村の墓(左手前)
真田幸村の墓
大八(片倉守信)
真田幸村の次男、大八は慶長17(1612)生まれとされ、幸村が最期を遂げた大坂夏の陣の時はまだ幼児だった。その後片倉家の家来となり、片倉守信と名乗った。守信は当初仙台藩士となって仙台城下の五橋通に屋敷を構え、現在の蔵王町などに領地を与えられたという。墓は当信寺にある。大八は男児であるため、徳川方からすると生かしてはいけない存在だった。そのため仙台藩の当時の記録を見ると、家系の偽装工作をして守信を守ったとみられている。息子の片倉辰信の時に真田姓に戻している。
墓は当信寺にあり、その上部には真田の六文銭ではなく一文銭が刻まれている。真田の血脈を何とかつないだことを物語っている。
参考文献
「白石城物語」(読売新聞東北総局)
「よみがえる白石城」(碧水社)
「真田幸村の系譜 直系子孫が語る400年」(河出書房新社)
※このページは白石城内の展示パネルの英訳・繁体字訳の文章にWEBオリジナルのストーリーを加えて制作しています。