白石城周辺の歴史スポット(城の東側)
白石城下
展示パネルのAあたりまでが白石城内であり、武家屋敷が立ち並び城下町を形成していた。白石城下を奥州街道が通り、多くの通行人が行き交った。
市街地のいたるところには今でも堀割(水路)を見ることができる。西側の標高が高く東側が低い地形を利用している。堀割には戦からの城下町の守りや、住民の生活用水など多様な目的があったとみられる。
明治維新後も活用され、名物の「白石温麺」の粉を引くため、約100の水車が市街地で回っていたという。
当信寺
当信寺の山門は白石城二の丸大手二ノ門が移築されたものである。この門は二の丸への関門だった。当初は専念寺に売却されたが、明治20(1887年)、東北本線の開通に伴う駅前道路整備により、当信寺に転売された。2階の大きく開いた窓が特徴的で太鼓をおいて城内外に時を知らせるためにあけたといわれる。境内には真田幸村の遺児・阿梅と大八の墓がある。阿梅は西国生まれのため、西国人も通る街道付近に埋葬を願ったとも言われている。阿梅の墓石は如意輪観音像を形どっていたが、歯痛のため頬を抑えているように見えるところから、虫歯に苦しむ人たちがこの墓石を削って飲むと良く効くという迷信が生まれ、削り取られてしまった。
専念寺
開基は慶長7年(1602)。初代・片倉小十郎景綱に重用され、一世から七世まで片倉家より2貫文の禄を受けていたといわれる。境内の「太子堂」には法隆寺の国宝・聖徳太子の像のご分身が飾られている。
浄瑠璃や歌舞伎の演目となった敵討ちの物語「碁太平記白石噺」ゆかりの寺でもあり、専念寺所有の「錦絵」からもその様子をうかがい知ることができる。
参考文献
※このページは白石城内の展示パネルの英訳・繁体字訳の文章にWEBオリジナルのストーリーを加えて制作しています。